概要 【Overview】
1980年代の鉄腕アトムのTシャツ。Hanesボディのアメリカ製(Made in U.S.A)。
鉄腕アトムは手塚治虫の漫画作品。
21世紀の未来を舞台に、原子力(後に原子核融合)をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット、アトムが活躍する物語。米題は『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』。(Wikipediaより抜粋)
最近では手塚治虫作品のNFTアートが話題に。
年代 【Era】
1980年代 (1980’s)
相場 【Market Price】
2010年前後:¥10,000前後
2020年前後:¥30,000〜60,000
感想 【Impression】
手に入れるべきか
1980年代のアニメTは10数年前と比べ5倍前後価格が高騰しており、AKIRAのTシャツなどモノによっては10倍以上の価値になっているものもある。
特に手塚治虫のような有名作品どころのIPはマーケットが巨大であり、近年では手塚作品のNFTが高額で売買されたことも記憶に新しい。
1980年代の鉄腕アトムTが市場に出てくるのであれば、手塚ファンであれば入手すべき。
恐らくアトムのファンではないと購入するには躊躇する価格で流通すると思われるので相場の理解に苦しむようであれば手を出さない方が良い。
投機の面で見ても、鉄腕アトムというIPが今後市場の価値が落ちることは考え難く、むしろ上がる一方であると予測される。
購入しても売値が買値を割ることはないと考えられるため購入して損をすることはないと考える。
感想
手塚治虫のことも、鉄腕アトムのことももちろん知っていますが、まさか「古着」を通して関われるとは想像もしていなかったですね。
概要に記載した通り、手塚治虫の作品は様々に形を変え、NFTアートとしても不動の人気を誇っており、令和となった現代でもなお愛され続けています。
そしてNFT化したということは、地球が壊滅しない限りは、手塚治虫という名もその作品達も永続的に残り続けることとなることを示しています。
鉄腕アトムについてから脱線しますが、自分自身は「火の鳥」に多大なる影響を受け今世を生きています。
火の鳥との出会いは30歳前後とかなり遅めの出会いでしたが、「生」と「死」、「輪廻転生」、「信仰」について深く深く考えるきっかけとなったものでした。
特に「未来編」のラストは驚愕し過ぎて、未だにどのシチュエーションで読んでいたかということを鮮明に記憶しています。
最も火の鳥で好きなシリーズはベタかもしれませんが「鳳凰編」で、今の自分自身の人生観や思想はこの「鳳凰編」で一変したと言っても過言ではないでしょう。
元来「神頼み」のようなものに対して懐疑的であったり、そもそも宗教的なものを一切信じないような、まるで天邪鬼とも捉えられてもおかしくないような思想を持っているのですが、誰しもが本当にまるで神様というような偶像が本当に存在しているかのように振る舞うことに首を傾げていて、むしろ、このような自分の考えを持っている方がおかしいのではないか、とずっと疑問に感じて生きてきました。
その中で出会った火の鳥の鳳凰編で、主人公の我王がある出来事をきっかけに「誰かに与えられたものではなく、自分自身で築き上げた自分の中の感性を信じることこそが自分の信仰である。」と悟るのですが、この一文を見た時は涙が出そうになるほど感銘を受けました。
それは、懐疑的な自分の考えが肯定された瞬間でもあったからでしょう。
このようなことは、人に語る場面もなかなか無いですし、悩みという類のものとはまた別次元の話なので、誰にも話すこともなく一人で抱えてきた考えでしたが、火の鳥によって自分の中で長い間ずっと葛藤していた霧が晴れていったのです。
鉄腕アトムから話が逸れてしまいましたが、このような機会ではないと、手塚治虫愛を語る場もなかなかないわけで、鉄腕アトムのヴィンテージTシャツがあるなら、火の鳥のヴィンテージTシャツがあってもおかしくないと考え、未だに運命の一枚を追い求めているのです。
入手経緯としては、海外から仕入れた一枚で、オーナーも価値がわかっていたからか、そこまで安く仕入れられたというような感覚は持っていません。
恐らく販売時も当時では2倍程度が関の山と言ったところでしょうか。
ほとんどの商品に対して言えることですが、自分自身がマニアだからか、レアピースを手にした時に「高く売れるぞ、うしししし、、、」というような金の亡者的な感覚というのがほぼ無くて、むしろお店のラインナップに加えられる喜び、紹介できる喜びの方が大きいのです。
そのため、自分にとって古着を販売するという行為は商売と趣味の両方を兼ね備えていることであり、それを生業にできるということは人生において最も幸福であるという感覚です。
そのような感覚を持っているからこそ、ラインナップにはこだわっているというのは間違いありません。
儲けだけ考えるのであれば、商材は売れるものにすれば良いからです。
ですが、見境なく自分が何も感じないものを販売して利益を得たとしても、そこに自分の掲げる「幸福度」は満たされるものでしょうか。
古着やヴィンテージに限ったことではありませんが、「モノを売る」というのは、自分の人生の中で情熱を持ち夢中になった大好きなものではないとダメだと思っていて、そうでないと販売そのものの行為に満たされることはなく、生きる糧になり得ません。
一時的な収入を得るような不用品の販売とは別で、生業として得た収入は不用品を手放して手にした収入とは重さの次元が違うものです。
そして、その「重さ」こそが自分の充足感を満たし、豊かな人生へと繋げてくれるものと結論付けています。